朝日広告賞2009

まいにち睡眠3時間が1年くらい続いてないかという生活を過ごしています。Twitterでの活動がおもしろすぎて、どうもブログが手薄になってしまいますが、ぼくの思考の居場所はブログだと思ってるので、見えない読者の方々、今年もよろしくお願いします。
そんななか、朝日広告賞に応募する作品をつくってました。とはいえ今回はかなりやっつけです。蚊取り線香で迷路の表現をつくっていたのですが、時間とスキルがたりなくて完成できず、そのパワーを無駄にしないためにパパッとつくったのがこのカメレオン案になります。
本当は村上春樹の『1Q84』が課題に出てたので、たとえば「鳩山U紀夫」とか「事業C分け」とか、単語の一部をアルファベットにして、隠し文字をしのばせるというアクロバティックな表現を構想していたのですが、いかんせん人員と時間が足りず、タイムアップとなりました。だれか代わりにデザインしてほしかった。ぼくはデザイン出身なのにデザイナーの友達がまったくいないんだよなぁ。


にしてもさいきん、営業とマーケターとプランナーとコピーライターとデザイナーとプログラマーを並行して、がんがん実務をこなすというハイブリットというより悪食な仕事振りなので、マジで死にそうなスケジュール・・・。なんかTwitterで愚痴とか日常をつぶやくとリムーブされるのでブログで書き込むという逆転現象です。いかんいかん、ここはあくまで思考の居場所です。なにせ毎月はてなポイントを払ってますからね。

 

2009の結果

ぼくは1月1日のエントリで、2009年は引きこもりつつプラグマティックに生きたいと言った。その目標はまるで達成されていないと言ってよい。引きこもるどころか頻繁に出かけてあらゆる人と対話したり、プラグマティックというより単に現実的であり、作業労働に従事しているだけだった。あの目標はぼくが広告代理店の大人気雇われマーケとして所属している以上、無理があった(だから2009年はかなり冷静な気持ちで会社を辞めたくなっていた)。雇われサラリーマンとして生きる以上、あまりに無謀なことを言うのはやめて、地に足をつきながら、その立場から立てられる目標をつくらなければならない。

とりあえず2009年の目標がどれだけ達成できたか、振り返ってみよう。

  1. 抽象的思考から実証的論考を行う。 → 新しいメソッドができつつある。
  2. 10000字以上の広告論文を2本書く。 → 1本は書いた。
  3. 1本はインターネットと広告に関するテーマにする。 → まぁそういう論調で書いた。2010年5月には発表します。
  4. 1本は情報理論と広告社会学が交差するテーマにする。 → なんでこんなん掲げたんだろう……考えてなかった。
  5. XMLJavaなどのスクリプトを記述するトレーニングをする。 → 仕事でHTMLとCSSはバリバリ描いたw
  6. WEBサイトをWeb2.0の構造でリニューアルする。 Dreamweaverを立ち上げたのは1回のみ。
  7. mixiは書かずにブログを書く。 mixiは書かない代わりにTwitterに沈泥しましたw


とにかく論文を書かないと話にならないな。ぼくのフラストレーションのすべては、本を読んでないことと論文を書いてないことに起因している。2010年こそは読む。そして書こう。満足に書けなかったら会社は辞めさせてもらおう。ぼくにいま決定的に足りないのは、未来への覚悟だ。柄谷やヴィトゲンシュタイン的にいえば「暗黙の跳躍」だ。
 

啓蒙かまぼこ新聞

小説家の中島らも。彼がコピーライターだった時代の代表作に『啓蒙かまぼこ新聞』という伝説の雑誌広告がある。2ページの見開きで、カネテツデリカフーズのかまぼこをネタにして、商品とは何の関係もない、中島らものふざけたエッセイや4コママンガ、読者からの投稿が誌面を賑わせていた。この仕事は、広告のあるべき姿が提示できていたと思う。これこそが現在において、広告と呼ぶべきものである。
いま、広告を「コンテンツ」と呼ぼうという潮流がある。だがそう叫ぶ人ほど、コンテンツのつくり方がわからないのが現状だ。広告に携わる人は、完全にマーケティングの作法が頭にこびりついていて、人を楽しませる手法を持っていない。これが現実だ。

ではどのようにすれば広告はコンテンツになりえるのか。マーケティング脳に汚染された人に、そのやり方を教えたい。最大のコツは、USP(機能的特徴)から出発してはいけないということだ。ではどこから出発すればよいか。商品から感じるインスピレーションから出発すればよいのである。そしてそのインスピレーションは、良いイメージだけでなく、悪いイメージもふざけたイメージも取り込んで、ぜんぶ使ってしまえばいいのだ。簡単にいえば商品をネタにして、好き勝手遊べばいいのである。ところで「ある広告人の告白」でも中島らもについてエントリがあがっていたので参考に。

「そんなの広告として成立しないよ」と、マーケターは思うのだろう。はっきりいって、だからマーケターなんて人種はダメなのである。そういう脱広告こそが広告なんだ!と、クライアントを説得するロジックをつくるのが、マーケターの使命である。そしてそういうふざけた広告を、USP志向の広告クリエイターになんか任せず、同人作家とかMAD職人とかニートに丸投げして、アナーキーな世界をつくればいいのである。そしてロバート・ノージックみたいにリバタリアンな世界でばっちりいけるぜ、という話をすればいいのだ。そう、もうすでに私は答えは見えている。後はやれるかどうか、だけだ。

ということで、アナーキーな広告国家を先駆けた中島らも『啓蒙かまぼこ新聞』は必読である。コンテンツとかかっこよろしいこと言いたいんなら読みなさい。ブランディングがどうこう言いたい奴は、ゴミの役にも立たないドラッカーの啓蒙でも聴いてなさい。


啓蒙かまぼこ新聞

啓蒙かまぼこ新聞

 

レイバーワーク

沢山遼『レイバーワーク:カール・アンドレにおける制作の概念』を読んだ。この論文は美術手帖が主宰する芸術評論賞の第一席(グランプリ)を受賞している。ちなみに面識はないが沢山さんは私の大学の、そして同じ学科の後輩である。生まれて10年足らずの学科なので、今回の受賞は同志として非常にうれしいことだった。またこのテクストに多いに刺激を受けたので、以下にちょっと感想を記してみる。


この論文では、いわゆるミニマリズムが形式的条件を指し示すのではなく、その代表的作家とみなされていたカール・アンドレにおいては制作する主体のほうにこそ定義されていることを示唆している。アンドレの作品はジャッドの幾何学的な華々しさに比べて、あまりにも素材が剥き出しのままで「貧しく」見える。おなじミニマリズムでもなぜこうも違うのか、と考えたときに、アンドレにおいては作品よりも、アンドレ自身の態度にこそミニマリズムの根源が隠されているのではないか、との仮説が提示されているのだ。

アンドレやミニマリズムに関する深い言及については、私の手に負えない範囲なのでここではあまり取り上げない。詳しくは本論を読んでみてほしい。しかしながら私が個人的にたいへん興味深かったのは、ハンナ・アレントの『人間の条件』で示されていた「仕事」の重要性を批判する形で「労働」の今日的な意味を浮かび上がらせていた点だ。仕事とは技巧的な創造力であり、つまりこれは芸術のことである。芸術とは人間の生とは離れたところで浮かび上がる人工的な所作だ。たいして労働とは、人々が生きるために生産し消費する、その閉じられた連関の運動体のことである。そしてアレントは、人間にとって大事なのはガンガン仕事をすることだよ。労働はみんなやってることじゃん、と主張していたのだった。

沢山はアレントが提示した仕事の概念を、芸術の現在と結びつける形で批判している。アンドレはいわゆる芸術家でありながら、「置く」「積む」といった所作からもあきらかなように、もはや労働に近いのではないかという分析をしている。たとえばアンドレによるレンガを置くだけの作品「カーディナル」は、その置いた瞬間に、観客がレンガを踏み歩いている状況をかんがみると、生産と消費が密接に結びついているという意味において労働であるという。こう考えるとジャッドのパキっとして触れることを許されないマテリアルのミニマリズムと、アンドレの作品はその成立過程がまったく違うことがよくわかる。

ではなぜ本論では芸術のプロセスを、仕事ではなく労働に見出したのだろうか。この点の論旨はやや勝手な読解になるかもしれないが続けてみよう。おそらく現在の自由(芸術)が生成されているその背景にあるのは、人々の生命に裏付けられた労働力があるのだという政治的なメッセージを取り上げているわけだが、この含意を芸術の観念に接ぎ木しようと試みているのだろう。

つまり芸術とは思考の外化だと思われていたが、思考する行為そのもの、あるいは生きるための行為そのものから芸術の条件を見出そうと沢山は(アンドレは)試みているように感じた。この発想は優れてアクロバティックである。芸術はメッセージを訴えるものだとされていたコンセンサスに、芸術は生きるためにやることなんだ、そもそも芸術の起源である呪術は生きるための行為だったではないか、という反論を繰り出しているように見える。もうひとつ勝手に連想したことを記しておくと、このテクストは東浩紀桜坂洋が描いた、ゲームをしながら仕事ができる「ゲームプレイ・ワーキング」の発想と近いものがあると思った。


この論文が傑作であることは言うまでもないが、しかしそれだけでは今日において不十分であることも言っておきたい。審査員の椹木野衣が、労働という言葉を扱う以上、派遣労働やパートタイムの問題とも連結してしまう可能性や、その概念のアクチュアリティも示すべきだと思った。いや、訴えざるをえないだろう。
いま、批評はかなり読まれていない。不要とされている。ましてや芸術の評論といったら、一般人はおろか下手すればアーティストさえ読んでいないだろう。読んでいるのは数少ない美学系の学生たちとその講師陣、藝大を何浪もしているようなごくつぶしとかだ。あらゆる人たちに美術批評は読まれなければならない。このテクストにはその読まれるための射程があるが、それがどんなアクチュアリティを持っていくのかは明確にされていない。今後は労働的な芸術制作の概念が示した可能性を、より拡げて考えられるような論考を期待したいと思う(かなり乱暴な読み方でしたが ごめんなさい)。
 

美術手帖 2009年 10月号 [雑誌]

美術手帖 2009年 10月号 [雑誌]

 

集まる創発と群がる創出

ある論文を書き終えて、ほっと一息している。ブログをさぼってTwitterばかりやってたので、そこで貯めたメモをブログで書いていくことにしよう。それにしてもTwitterを試していて確信したのだが、私はTwitterそのものは否定しないのだが、Twitterに群がっている人たちに疑問があるんだなと思った。
というのも、賑わいをみせているソーシャルメディアSNSでも動画サイトでもモバイルゲームでも何でもいいのだが)に群がりはじめる人は、そこでなにかビジネスをできないか考えている人々だ。このソーシャルメディアは会員も多くて接続時間も長いんで、プロモーションに使えると思ってるわけだ。
だがこの発想はじつは大きな間違いをしている。なぜならプロモーションに使おうとする発想そのものが、ソーシャルメディアの本質と矛盾しているからだ。たとえばソーシャルメディアに人が集まるのは、そのメディアそのものの用具性に惹かれて集まっている。ソーシャルメディアはそこに個我を持たないからこそ、人が集まりやすい環境となり、秩序が生まれ、メディアとして大きくなった。ビジネスマンはこの自生的秩序をむりやり歪めて、外圧的秩序にしようとするわけだ。たとえばソーシャルメディアで語られるユーザーのコメントを、プロモーションの言葉にすりかえようとするのは不自然であることはよくわかるだろう。


ソーシャルメディアが作ってきた自生的秩序は、創発を生み出している自然物のアーキテクトである。対して外からその環境を操作しようとするのは、創出を企図している人工的なアーキテクトである。創発のアーキテクトの問題は、資本と収益性がないために、創出のアーキテクトを介在させようとするわけだが、私の考えでは創出を試みる主体のエゴこそが問題とされるべきだと思う。つまりソーシャルメディアで儲けようと考えるのは、発展途上国への後方援助をコマーシャルに転用するのと同じ愚かさなのではないだろうか。
その問題はとても根深いもので、到底このエントリで分析できるものではない。しかしごく単純な話だけ言及しておくならば、ソーシャルメディアが「メディア」と名付けられてしまってることは問題のひとつとして挙げられるだろう。メディアには産業的な意味合いが強い。もちろん産業が興らなければ成り立たないのであろうが、ソーシャルメディアは今では公園やサロンのような公共空間になりつつある。だから公園をメディアにしてはいけない、という発想を私たちは持たなければならない。
 

アクセス数とブックマーク数

こんにちは。論文の執筆が滞ってて、なかなかブログを書く余裕がなくなってるtakumauです。しかしこの間、いろんな本を読んでヒントを得たので、論文が終わったらそのエッセンスをちょこちょこ書いてみたいと思います。
ところでひさびさにブログのアクセスレポートを見てみると、8月下旬のアクセスが普段の10倍以上になっていて驚きました。どうやらマンガの『20世紀少年』の書評を見に訪れてる人がたくさんいるようです。映画の最終章が公開された影響なんでしょう。NHKでも作者の浦沢直樹がよく登場してました。
ブログのアクセスを高める記事には大原則があって、やはり旬のネタをキーワードを散りばめて書くということです。私はあまり時事ネタを扱わないのでアクセスはあまりないのですが、マンガ・アニメなどニート論壇が喜びそうなネタや、アイドルについて書くとレスポンスが格段に変わります。逆にブックマーク数は時事ネタというよりも、しっかりテキストを書くとたくさん付いたりします。私としてはブックマークを稼げるような記事のほうがいいですね。有名人のブログだと過激なことを書けば書くほどブックマークが付いたりするので、それはそれで苦々しいですが。。。
 

アイ・ウェイウェイ展

ひさびさに美術熱が高まっているtakumauです。
森美術館で「アイ・ウェイウェイ展― 何に因って?」を観てきました。スライドショーはこちらです。アイ・ウェイウェイは中国の現代美術家のスター。北京オリンピックのスタジアム「鳥の巣」を考えたのはウェイウェイです。その作風は中国版のマルセル・デュシャンと呼ぶべき典型的なコンセプチュアルアートです。
この展覧会はクリエイティブコモンズのライセンスによって規定されているので、写真撮影が自由であり、かつブログに掲載することも許されています。国内で初の試みではないでしょうか。このような試みはもちろん歓迎すべきことでしょう。これまでなかったのがおかしいくらいです。







作家:アイ・ウェイウェイ:この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利・改変禁止2.1日本」ライセンスでライセンスされています。


とはいえ、観客は鑑賞よりも撮影するのに必死でしたが・・・。それも撮影OKという物珍しさがなくなれば、撮影することも自然に減っていくと思いますが(あるいは日本人特有の現象なのかもしれません)。外国のギャラリーや博物館は撮影OKなところが多いですが、写真に必死な人はあまりいないものです。