中小と大手広告代理店のちがい

ぼくは7年つとめた中小広告代理店をやめて、2011年2月に電通へ転職した。それから約3ヶ月たった。その間に知人から必ず尋ねられるのは「なんで転職したんですか?」「転職していちばん変わったことはなんですか?」である。この質問は転職した人ならだれしもがどこかで答えてるから一般的な話に過ぎないのだろうけど、ぼくが答えることはけっこう意味がありそうな気がしたのでブログでかこうと思った。

というのもぼくは美大でデザインを学び、広告代理店に新卒で入ってからは営業を3年、マーケターを3年半、シンクタンクで研究員を2年勤めてきた。いろんな業種のクライアントに関わり、自分で見積りもかいて原稿作りまでやっていた。すべてのメディアを扱って企画から交渉までやってきた。コンペは数知れず取りくんでたまに勝っては狂喜乱舞し、ほとんど負けまくって呑んだくれた(笑)。ちなみに大学生の頃には社員3名のベンチャー広告代理店のバイトをしており、ひとりですべての業務をこなしていた。
いわば中島らものエッセイで書かれてるような典型的な哀愁ただよう広告代理店の生活そのすべてを網羅してきたわけだが、いま振り返ってみるとそれらは中小企業で浴びてきた文化であり、電通という大企業はこれまたぜんぜんちがうロジックで動いている会社なんだなと痛感している。以下にぼくが感じた文化のちがいを紹介したい。


1.一人と分業
よくいわれることだが、中小広告代理店はスタッフの職域が広いため、スタッフ一人ひとりの責任感がとても重い。たとえばストラテジックプランナーはコンセプトだけでなく調査分析から媒体立案までやるし原稿制作もする。場合によっては自ら外部との交渉までする(それはぼくが営業をやってたからぼくだけの特徴かもしれない)。比べて大手代理店はあらゆる職域が分業化されてるので、一人ひとりがやることは部分である。それも昨今では職域が被ることもしばしば発生するため(たとえば戦略PRプランナーはストプラとメディアプランナー両方に侵食している)お互いに投げる球をみあって牽制することもしばしばある。それは弊害かもしれない。
しかし驚いたのは、大手の個々のスタッフは意外と全体のロードマップを理解し、自分のやるべき領域は迅速にかつハイクオリティな仕事をしてくれることだ。通常、仕事がパーツ化していくと個々のスタッフはロードマップを理解せぬまま作業すると思われがちだ。だが大手代理店のスタッフはけっこう意外とみんな全体を理解している。具体的にいうと、ストプラがつくった企画書をきっちり読んで理解するし、どこに自分が入ってなにをすべきかわかって迅速に行動できるってことだ。


2.アイデアとフィジビリティ
中小代理店はアイデアを大事にして、大手代理店はフィジビリティを大事にしていると思う。フィジビリティとは実現可能性のことを意味している。なんでわざわざフィジビリティと英語にしたのかというと、社内でよく出てくる言い方だからだ。会議中でも「この案件のフィジビリティはどうなの?」「これからフィジビリティを高めます」となぜかボンボン出てくる。恥ずかしながら転職してはじめて耳にした単語だった。このくらい頻出する単語って、たぶん前職ではアイデアというものに相当するのだろう。会議では「とりあえずアイデア考えてきて」「もっとすごいアイデアないの?」と、みんな自然にいってたし、会社としてもアイデアを事業のコアコンピタンスにしていたと思う。だがフィジビリティはあまり重視してなかった。どうにかなるだろうくらいに思っていたかもしれない。
あらかじめいっておくと、ぼくはアイデアもフィジビリティもどちらも重要だと思っているし、どちらに寄り添うことも否定しない。ただしぼく個人の考えとして、アイデアは湯水のように湧いてしかるべきだし、そもそも実行してこそ意味があるものなので、アイデアを一人の著作物であるかのように囲わずにみんなでその実効性を検証するほうに価値を感じてきた。だから今の会社のほうが思考としてフィットしているかもしれない。


3.マーケティングとストラテジー
広告代理店においてマーケティングプランナーってのはいろんな呼称があるのだけど、大手代理店はどの会社もストラテジックプランナーという呼び方を採用している。マーケティングとストラテジーってなにが違うのだろうか、ずっと疑問だったけど転職してようやくその意味がわかった気がする。ストラテジーとは戦略という意味で、いわば戦争用語だ。対してマーケティングとは競争相手に打ち勝つというより、市場とか顧客に対してどう自社をポジショニングするかという概念になる。
中小代理店はコンペの作業をするときに、まず出発点がユーザーインサイトになるし、作業が滞るとそれに立ち返ることで原点を見直していると思う。比べて大手代理店はマーケティングの作業うんぬんよりも、どうすれば勝つことができるかにこだわるし、企画が止まるとコンセプトやインサイトというより、勝つための条件を読みなおしている人が多いかもしれない。


以上である。本当はもっとたくさんの違いがあるのだが、構造的な違いはさておき(マクロ視点での紹介は他のブログでいくらでもかいている)、中小と大手でおなじレイヤーに属しながらもニュアンスが異なるポイントだけをあげたつもりだ。ここでかいたことはいうまでもなく主観的な意見にすぎず、多分に間違っているかもしれない。ぼくがいいたかったのは転職してよかったと感じた時、どこが自分に適しているのかを振り返った時に、上記のような特徴があったということだ。
ぼくは仕事するなら分業したいしフィジビリティとストラテジーにこだわりたいタイプだった。だから大手を選んだということだろう。ぼくとは真逆に、仕事は一人がぜんぶやりたいしアイデアマーケティングで突破したい、だからこそ中小やベンチャーを選んだという人もたくさん知っているし、彼らはみんなぼくの転職を心から祝福してくれた。ぼくもそのような仕事は好きだった。でもちょっと仕事の質を変えてみたくなったので転職したし、実際にだいぶ異なっていることを指摘したにすぎない。あくまで傾向値という参照にとどめていただければ幸いである。

 

ベアトリーチェの挑戦状 × 自律と贈与

PS3版『うみねこのなく頃に 〜魔女と推理の輪舞曲〜』が2010年12月16日に発売された。ぼくは公式サイトの制作をお手伝いしており「ベアトリーチェの挑戦状」という特殊なプロモーションを行っている。毎週、魔女がプレイヤーに対して挑戦を投げかけ、プレイヤーはあらゆるヒントを手掛かりに正解を推理している。ゲーム版のうみねこの基本は、魔女と人間が推理合戦をしているのをプレイヤーが眺めながら、魔女が正しいのか人間が正しいのか考察するのが醍醐味である。そんな楽しみ方をウェブサイトでも再現できたらと思って制作してきた。


ベアトリーチェの挑戦状」の内容については、あらゆるブログやニュースサイトで書かれているので解説は省略する。それよりこのブログは広告にまつわることを話すブログなので、このプロモーションを企画するにあたって考えたこと、そしてぼくが考える広告倫理(というと大変に不遜だが)について抽象的な話をさせてほしい。

PS3版のうみねこは、原作の同人ゲームを忠実に再現したサウンドノベルだ。比べて『ひぐらしのなく頃に』ではコンシューマー版は原作とは異なってシナリオを変えたり、あらゆる機能を盛りこんだサービス精神あふれる作品だった。極端にいえばPS3うみねこは原作PCゲームとの違いがあまりない(もちろんグラフィックやサウンド面で豪華なグレードアップがなされているが、基本的なストーリーや設定は原作を準拠している)。広告する商品の特徴のなさ。プロモーションするにあたってここは大きなポイントだった。

原作を買った原作ファンにコンシューマー版をどう提案すればよいか。これは広告プランナーであるぼくの個人的な問題意識と深くつながっている課題だった。広告はなにかの商品から派生して産みだされる制作物だ。言い換えれば商品がなければ広告は産みだされることはない。ゼロから有機物を産みだせない広告。しかし世の中でクリエイターと呼ばれる人種は広告業界になぜこうも多いのだろうか。映画やゲームなどエンタテイメントの世界では、もっともっとすさまじいクリエーションがあるのに、なぜ広告は自分のことをクリエーションだと名乗れるのだろうか。


ぼくにとって広告は、強い者に巻かれようとするコバンザメに思えて仕方がなかった。だからうみねこの原作を買ったひとに8,000円のコンシューマー版を買ってもらうためには、商品の宣伝をするのではなくて、広告そのものが商品価値を持ち“自律”*1しなければならないと考えたのだ。

ベアトリーチェの挑戦状」は毎週、いろんなクイズを出してプレイヤーに楽しんでもらっている。それは見た目には商品の特性である推理ゲームを喧伝しているようにみえるが、ぼくの意識はこのプロモーションのなかで、別の形の推理ゲームを注ぎ足している感覚だった。つまり「うみねこメタフィクションのミステリーゲームですよ。こんな特性があるからぜひプレイしてください」と言いふらすのではなく、「このウェブサイトでユニークなARG(代替現実ゲーム)をやってるので楽しんでください。そして商品はこれよりもっともっとおもしろい擬似ARGを体験できるからよければやってみてください」と言いたかったのだ。

うみねこは一般にメタミステリー小説だといわれているが、ぼくはあるタイプの擬似ARGでもあると見ていた。そこで広告の形をかりて、うみねこのARG的な側面をアップデートしたいと思い、たいへんに手のかかるプロモーションを行っているのだ。


その根底には、広告のあり方は商品世界にユーザーを引きこむのではなくて、商品を下敷きにした別のあるなにかの価値をプレイヤーに贈るべきではないかという考えがある。付帯物としてつきまとうのではなくて、みんなを楽しませるため、世の中を良くするため、なにかのアクションをおこすことをクリエーションと考えるなら、広告のあり方はもっと一般にいわれるクリエーションに近寄ってもいい。広告そのものがエンターテイメントとして成立していてほしい。そんな持論をもっとも表現できたのが「ベアトリーチェの挑戦状」である。このプロモーションはなにも商品のことを告知してはいない。ただおもしろいことをして騒いでいるだけだ。でもだからこそいいのではないか。

もうひとつ考えていたキーワードが“贈与”だ。商品のエゴを振りまくより、だれかに感謝の想いを伝えたい。その気持ちは2010年12月に発売されたあたらしいタイプの言論誌『思想地図β vol.1』の表2と表3広告で最もストレートに表現できたように思う。この広告は一見してなんの広告なのかわからないどころか、広告にさえもみえない。なぜそのような形態をとったのか。それは『うみねこのなく頃に』はあたらしい思想と言論の想像力を生み出した作品であるならば、他にも同じようにあたらしい可能性を探しているひとたちにエールを贈るべきではないかと考えたのだ。
ちなみに『思想地図β』の編集長である東浩紀の読者ならおわかりだろうが、この文面は東浩紀三島由紀夫賞を受賞したときに雑誌『新潮』に寄せたエッセイ「なぜ現実はひとつなのだろう」へのオマージュにもなっている。ぜひ一読してみてほしい。
 
 

*1:最初は“自立”とかいていたが“自律”に訂正した。ぼくはずっと広告は他律的であると考えてきたので、ここは自律と明記したほうが考えを引き継いでるからだ。

VAIO Xを買う人へ

ある人から「VAIO X と iPadのどちらを買うか迷っている」という質問をうけた。この2つに魅力を感じて、どちらを買うか、あるいはどちらも買うか迷ってる人はけっこう多い気がするが、ググってみてもその比較をした記事があまりないようだ。そこでどちらも使ったことがあるVAIO Xユーザーを代表して「iPadもいいけど仕事で使うならVAIO Xだと思うよ」という立場にたって提灯記事をかいてみることにした。
VAIO X と iPadはコンセプトが異なる商品だし、使う用途もかなりちがうはずだ。しかし超計量かつ、しっかり仕事までできるモバイル端末としてどちらを買うか迷う人はいると思う。どちらとも併用してもよいと思う。とはいえ個人的には、値段を度外視すればVAIO Xをおすすめしたい。


ぼくは現状、VAIO Xを持って1年ほど経つが、かなり満足している。ネット閲覧もオフィス使ってもラップトップと遜色ない感じで快適である。iPadを買おうかと考えたが、それこそ電子書籍を読むくらいしか用途が思いつかず、VAIO Xで事足りると思って、iPadは買わずじまいに終わりそうだ。軽量のデバイスでテキストを書くなら、iPhone 4Bluetoothキーボードでつないだほうがよかったりする。

VAIO Xは厚さ13.9ミリ。重量はSバッテリーで655g。Lバッテリーで約770g。iPadは厚さ13.4ミリ。重量はWi-Fiモデルが約680g。Wi-Fi+3Gモデルは約730g。iPadは軽いと思われてるようだが、じつはVAIO Xとあまり変わらなかったりする。すると仕事のデータをがんがんつくれるVAIO Xを持ったほうがいろいろ汎用性が高いのだ。

ぼくはVAIO Xにすっかりはまってる。その御礼の気持ちで、ソニーからお金も仕事もいただいてるわけじゃないが、勝手にVAIO Xを買う人のためのガイドをしてみよう。


参考:VAIO X オーナーメイドモデル価格シミュレーション


店頭ではなくネットで買おう。店頭モデルだとスペックが選べず、店頭用に決められてしまっているが、ソニー直販のSony Styleはオーナーメイドという仕組みですべてスペックを自分で選ぶことができる。カラーリングもネット限定のものがある。家電量販店で買えばポイントがもらえるメリットはあるが、ノートPCは一生ものになるのでSony Styleでの購入をおすすめしたい。


カラーリングは自由だがプレミアムカーボンは微妙。
天板のカラーは、2010年7月現在、プレミアムカーボン/ピンク/シルバー/ゴールド/ブラックの5種類から選べる。これは好みなので自由に選べばいいが、店頭でチェックしといたほうが間違いないだろう。店頭でみるとプレミアムカーボンはプラス5,000円かかるが、光沢塗装を施されているせいで指紋がべたべたと目立ちやすいのもわかるはずだ。


プロセッサーとストレージは予算の限りMAXで。VAIO Xは AtomZ というプロセッサーが使われている。VAIO Pでも搭載されたもので、ウルトラモバイル系のPCでは搭載が増えているプロセッサーだ。Core 2 Duoに比べればやはりスペックは劣るものの、グラフィック処理が激しい作業をしなければ、それほど遅さを感じないと思う。オフィスソフトやネット閲覧ではほとんど遜色ないスピードで処理されるだろう。ただし絵や動画をガリガリつくるには向いてない。もともとそういう人はハイスペックなノートを使いたがるだろうけど。とりあえず1〜2万円の出費が惜しくなければ、最高スペックにしとこう。


バッテリーはLバッテリーがバランス良し。Sバッテリーは軽さ重視。バッテリーにはS・L・Xの3タイプがある。SとLは見た目は同じだが、Lのほうが100gほど重い。軽さを信条とするVAIO Xとしては痛恨の痛手ではあるが、Lバッテリーならば実質的に4〜5時間は持つ。Sバッテリーは2〜3時間ではないか。ちなみにバッテリーはメーカー発表の数字から、半分くらいの時間しか持たないと考えたほうがいい。Xバッテリーはでかすぎて持ち運びには適していない。とにかくバッテリーはかなり悩んだポイントだった。ぼくはLバッテリにしたが、VAIO Xの軽さを味わうならSバッテリーでもよかったかもしれない。実際はそんな長く使わないしね。


OSはWindows 7 Homeで十分。ソフトはなしでよい。Windows 7 Professional も選べるが、普通のユーザーは使わない機能が満載されてるだけなので意味はない。オフィス系のソフトはほしいものはバンドルすればよいが、かつてのOffice 2003がベストだと思う(2003ならみんな持ってますよね?)。Office 2007になってむしろ使いにくくなったし、現状のOffice 2010もその継承だと思うので、個人的には2003でよいと思う。セキュリティーソフトはパソコンを重くするので、ぼくは搭載しない。そもそもノートは重要データを保存しないサブマシンなので、セキュリティを強くする必要はないだろう。日本語入力ソフトはATOKよりも、ぶっちゃけ Googleのフリーウェアでいいでしょう。


無線系はWiMAXBluetoothを搭載したいぼくが2009年に買ったとき、WiMAXはまだまだ広まっていなかったので搭載しなかったが、現状はかなり広範囲に広がっているので、これからはWiMAXはありかもしれません。唯一、スペックで後悔しているところです。VAIO X専用のBluetoothマウス(別売)を使うとかっこいいので、こちらも搭載しとこう。


キーボードは好み。個人的にはスタイリッシュな英字配列だが使いにくい。英字配列だとキーボードに日本語が書かれていないため、見た目はクールだ。だが使ってみるとわかるが、Enterキーがやたら細長かったり、Backspaceやdeleteキーが狭かったりして、慣れるまで大変かもしれない。見た目なのか実益なのかで選ぼう。ぼくは見た目で選びましたw 慣れれば大丈夫です。


ざっとこんなところだろう。iPadVAIO Xを比べながら考えてみたが、やはりVAIOはどこまでいってもパソコンであり、上記のスペックだと12万円くらいになるから、価格はiPadの2倍以上だ。だからぜんぜんちがう概念もジャンルもことなる端末だと考えたほうがいい。ということでぼくは、発売が延期になったiPhone 4ホワイトを断念して、ブラックモデルを買いにいこうと思います。

 

クリエーティブは□の外へ

日本広告学会が主催する第三回クリエーティブ・フォーラム「クリエーティブは□の外へ」へ出席してきた。ワイデン+ケネディの伊藤直樹、the.ltdの中村勇吾、人材プランナーの山本直人東海大学の小泉眞人、博報堂の須田和博など、たいへん豪華な顔ぶれだった。

これからの、あるいは現在の広告クリエイティブに関心のある方はぜひ知るべき内容がふんだんに盛り込まれていたので議事録にしてみた。読んでみていただければ幸いである。かなりの乱文で意味不明なところが散見されると思うので、ご質問があればこのブログのコメント欄に書き込むか、ぼくのTwitterのアカウント @takumau にリプライを投げてくれれば、できる限りお返ししていきたい。


【PDF版】日本広告学会 第三回クリエーティブ・フォーラム 議事録
【Word版】日本広告学会 第三回クリエーティブ・フォーラム 議事録


とりわけ中村勇吾山本直人の発表はとても刺激的だった。山本直人はかつての広告といまの広告の風景をそれぞれ対比し、いま求められている広告の現実とはなにか語っていた。その分析をネガティブにとらえるかポジティブにとらえるかは読み手によるところだろう。
中村勇吾はそんな現実をあっけらかんと受け止め、じつに鮮やかな回答を示している。その手さばきは旧来の広告人にはなかった方法論だと思う。というより美術系・工学デザイン系の人からすれば馴染みのあるアプローチなのだが、それがもう完全に一般化したんだなと感じた。

いずれの講演も、広告の概念がすっかりパラダイムシフトしていることを実感させるものだった。ぼくはこれから広告にどう向きあっていこうか、本当に考えさせられたな。いい意味でも悪い意味でも。いまはとりあえず凡庸な感想しか抱けないけど。

 

マクルーハン再考 4

高校二年生の時にかいた小論文で、我ながら気になってやまないフレーズがある。
「パウル・クレーの線は、メディアである」

NHKプロフェッショナル 仕事の流儀』で、漫画家の浦沢直樹が愛好するロダンクロッキーを皮切りに、絵の輪郭線について語っている。

漫画を描くようになる人たちには、ある作家がスッと引いた線に対してビリッと電流が走るように反応したことがきっかけになる人が、結構多いのではないでしょうか。(中略)引き始めから引き終わりまで、目的意識がはっきりしていてスーッと引けている線というのは、すごくいいなと思うんですよ。反対に、迷い線があったりすると、「ああ、ここで迷ったんだな」というのがわかりますよね。

私が注目しているのは、線の造形性ではなく、優れた線が引き起こす人々への感染力である。浦沢が電流と呼ぶものだ。この感染力は今日においてもはやメディアと呼ぶに相応しいと思う。優れた線は人々の想像力をかきたて、間主観性を醸成する。いまメディアの問題を考えるために必要な視点として、間主観性の可視化がある。ちなみにかつて「間主観性と合意形成」でコミュニケーションの問題を考えたことがあるので参考に。

「○○○の線ってなんか○○○を思い出すよね」と誰かが感じてつぶやく。他の誰かが似たような(でも内実は違っている)ことを感じれば「同意です」「ぼくは○○○を想起します」とつぶやく。いつか影響力のある人がつぶやきをみて転送する。誤配は問題ではない。転送されることがメディアにとっては重要なのだ。Twitterはこの転送をボリュームに仕立てることでメディアと化した。

すでにTwitter間主観性のエンパワーメントとして機能してはいるが、現状は言葉の間主観性を可視化する道具となっている。線や色彩といったモノの想像力を可視化する道具とは言い難い。したがってこれからのメディア事業者はイマジナルなモノから連想される人々のイメージを浮かびあがらせるアーキテクチャの開発をすべきだ。おそらくアーキテクチャが現代のメディアとして尊ばれるのは、このような背景がある。

既存のメディア事業者の人と話していると、メディア意識があまりに強固に持ちすぎていて辟易とする。いかにしてメディア=ビークル=器を開発するかに躍起だ。私はメディアをメディウムと同義にとらえているため、美術家とメディア屋にあまり差を感じていない。コンテンツとメディア、アウトプットとビークルは別物ではなく、相互に依存するものだ。まずはお互いの意識を融解する作業から始めたい。どんなアクションをしていくか明快な答えはないが、私のなかに内在する思いを実践して、ひとりひとりに問いかけている今日この頃だ。


蛇足。そういえば母親は、私が小学生のころにアンリ・マティスの画集を見せてくれて「一切の無駄がないフォルム。超しびれる」と評していた。浦沢の電流と同じではないか。この着眼が造形のメディア性を考えるうえで出発点になっている気がする。

 

第三の道と第三の広告

Twitterをはじめてから半年も経たないのに、世界がダイナミックに動いていって毎日ついていくのが大変なほどだ。そんなTwitterの潮流が続々と押し寄せるなか、『思想地図』の論考で注目をしていた研究者・西田亮介が「.review(ドットレビュー)」という批評プロジェクトを始動させることを知った。自分たちでコンテンツをつくる。各々の思いを募ればメディアは誰にでもつくれる。500字でアブストラクト募集するという。一週間ほど悩んだあげく、ぼくは参加を表明した。

その後押しになったのは『思想地図』のアブストラクト募集に参加しなかった後悔だろう。もう記憶が定かではないが、当時ぼくは今もなお変わらず広告のマーケターをしていたわけだが、正直いって仕事の浅薄さにうんざりしていた。マーケティングへの嫌悪が充満していた。ぼくがやりたいのはもっと純粋で、青臭いものだったのだ。だから研究者を志していたし、心のどこかで批評家になりたいと思っていた。その気持ちが半端なまま『思想地図』は刊行され、黒瀬陽平のテクストを読んで、ああ、もう批評家はやめようと思った。こういうテクストをぼくは書きたかったのだ。そしてそのイメージを超えるものを年下の彼がすでに実践してしまった。それからぼくのキャリアプラン再考への旅がはじまったのである。

2010年にTwitterに出会い、多くの文化人や研究者、批評家たちがビックウェーブに入ってきた。新しい言論の波を肌でびりびりと感じた。最初はメシがうまいだの、眠いだのつぶやいていただけだったが、大波に刺激をばしばし感じて、いつかの情熱とストイックさが体中にみなぎった。そして.reviewが生まれた。この波に乗らないと、ぼくはいつまでもグズグズするだけだ。手元にはなにもない。気持ちがあるだけだった。


かくして2010年4月。『第三の広告― エゴフーガリストの生み出す力と育てる力 ―』という論考を公開した。第三の広告とは、簡単にいえば企業視点でも生活者視点でもなく、かといって公益に還元するだけでもない、両者のあいだを止揚した広告のことだ。その題材としてキャドバリーのデイリーミルクのテレビCMをあげて考えている。これからの広告が目指すべき指針をぼくなりに示したつもりだ。

あまりロジックを積み重ねようという気はなかった。ぼくが何年も感じてきた広告への嫌悪。そして美術への憧憬が入り交じった文章になっているだろうと思う。だから広告へ携わる人へのメッセージになってしまっており、.reviewのような広く読まれるためのプロジェクトには不向きなのかもしれない。しかしまず鬱屈した思いを吐き出さねば気がすまなかった。ぼくの素直な気持ちが描けたと思う。

第三の広告を考える過程で、様々な出会いがあった。Twitterで出会った人々のタイムライン。黒瀬陽平がキュレーションした美術展・カオス*ラウンジとその周辺。マルセル・デュシャンが打ち出した芸術係数などに脳刺激を受けて、まったく別の形で新しい問題系へと飛び立てる予見がすでにある。ぼくの仕事は批評文を書くことではないことに気付きながらも、書かずにはいられないこの思いをどうやって解消すればよいかその道標はいまだ見えない。しかし天啓は霊媒せねばならない。いまだ見ぬ未来の自分にむけて、ぼくはあらゆるなにかを霊媒のようにアウトプットし続けるだけだ。

 

owatter つぶやきのなく頃に

ひぐらしのなく頃に絆」が第四巻で完結した。最後の記念に「owatter つぶやきのなく頃に」というTwitterを使った掲示板サイトをつくった。
Twitterハッシュタグ #kizuna4 をつけてつぶやくと、この掲示板にみんなのつぶやきが表示されて楽しめる仕掛けになっている。ユーザーのみんなはひぐらしの思い出や実況プレイをつぶやいてもらい、可視化するためのサイトだ。さらにひぐらしに登場する7人のキャラクターもつぶやいているので、ユーザーは掲示板を探しまわって7人のキャラクターを見つけると、ケータイの待受がもらえたりする。ただし見つけるだけでは手に入らず、キャラから出題される問題(ブカツイッター)を解かなければもらえないキャラもいる。みんなは問題を真剣に取り組んでいてくれて、掲示板はかなり白熱している。


このサイトをつくるうえでぼくが考えたことは、集合知のデザインの問題だった。このサイトはみんなのつぶやきを集合知として集約し、あるデザイン処理を通してアウトプットするものだ。そこでぼくは、集合知が大量に集まれば、優れたデザインが生まれるのかどうかを実践してみたかった。その結果として見えてきたのは、内容や物語のレイヤーにおいては集合知は関与するが、インターフェースのレイヤーにおいてはあくまでも設計者の考えが関与するということだ。なんとも当たり前な話だが。

集合知のデザインには、入力と出力のデザインがある。私たちがインターネット世界で目の当たりにしているのは、おもに入力のデザインによるものだ。出力のデザインを決めるのは、まだまだ設計者が決めてしまっている。今後、ぼくがつくるデザインは、情報社会の恩恵を受けた新しい出力のデザインの形を考えるものになるだろう。そんなことを考えながらデザインをしていた。